はいさい!こんにちは!
Webライターの平敷篤こと、「へっさん」です。
サイトリニューアルとともに開始したコラム連載の第2回です。
今回は私が大好きな落語について書きます。ご一読ください。
感想のコメントも、お待ちしております!
落語と私
私が落語好きになったのは中学生の頃。初めて聞いたのは、古今亭志ん生師匠の「火焔太鼓」だった。
なぜこれほど鮮明に覚えているかといえば、志ん生師匠が語る落語の世界にグイッと引き込まれたからだ。
たった一人の人間が声だけで男性や女性、町人から侍、殿様までを演じる話芸の妙に心を鷲掴みにされた。そして聞けば聞くほど、目の前に広がってくる江戸の人々の姿や風景。「なんだこれ!凄い!」と感動したのを覚えている。
この衝撃的な体験から私は、名人と呼ばれる師匠方の音源(CDやカセットテープ)を買い漁り始めた。桂三木助師匠や三遊亭圓生師匠、柳家小さん師匠、三遊亭金馬師匠など、錚々たる師匠方の音源を街のホームセンター(落語だけでなく懐メロCDやカセットも売られていた)でゲットした。
中学生の頃の私といえば、先日のコラムで書いたとおり沖縄のお笑いはもちろん、テレビのバラエティ番組に夢中などこにでもいる少年だった。
そんな少年が出会った話芸の究極体も言うべき「落語」。
それからの私は、テレビを見て、ラジオにかじりつき、落語の音源に耳をそばだてる、ちょっとだけ変わった少年へと変身した。
立川談志と私
錚々たる昭和の大名人たちの音源に慣れ親しんでいた私に、さらなる衝撃を与えたのが「落語界の異端児」や「風雲児」と呼ばれた立川談志師匠である。
談志師匠を初めて見たのは、テレビ番組「ビートたけしのTVタックル」に出演したときだった。その際の恰好や振る舞いに度肝を抜かれたのを覚えている。
テレビの中で談志師匠は、プロレスラーであるデストロイヤーの覆面を被り、言葉を一切発せずに椅子に座っているだけという、まさかの展開だった。これでは本当に談志師匠なのかどうかすら分からない。まして一言も話さないとあっては、職務放棄とも取れる行動だ。
そんな談志師匠を見て私は「かっこいい!」と思った。 何か意図があったのか、いたずらだったのかは分からないが、我を押し通す姿勢にダンディズムを感じたのかもしれない。
その人物が落語家だと知って以来、談志師匠の落語を聞くようになった。どこか理知的な語り口と、しゃがれた声で話す江戸っ子言葉は聞いていてカラッとした気持ちになれる。また、そのハスキーな声で歌い上げられる都々逸は、なんともセクシーで惚れ込んでしまったほど。
それからは朝起きては談志、昼休みに談志、夜寝るまで談志という日々。周りに落語好きな友人はおらず、ひたすら独り、自分の世界に没入し談志信者となっていた。
落語と私と学生時代
大学進学で京都に出てきた私だが、落語熱は冷めることがなかった。部屋には談志師匠の落語全集のCDを持ち込み、沖縄にいるときと同じく聞き込んでいた。
また、京都で落語会(鰻屋の2階で定期的に開催されているものもあった)があると知れば極力足を運び(苦学生の私には毎回手が出せる値段ではなかったため)、バイト代を貯めては大阪の「天神天満繁昌亭」へ落語を聞きに行くこともあった。
落語好きには、なかなかのパラダイスだったと今では思っている。
落語と私と沖縄と
最後に沖縄に目を向けてみよう。
私が落語にハマり出した頃の沖縄では、落語を聞きに行く機会は滅多になかったように思う。落語会の開催は私の記憶では、年に何回もなかったのではないだろうか。
それが現在、那覇市の沖映通りで毎年「うまんちゅ落語まつり」が開催され、賑わいを見せている。その要因として、沖縄で活動する落語家や沖縄出身の落語家が増えてきていることがあげられるだろう。
NHK朝ドラ「ちゅらさん」で方言指導や出演もしている「藤木志ぃさー」こと藤木勇人や、県内で積極的に落語会を開催している北山亭メンソーレが有名だ。いずれも立川志の輔師匠に師事しているところに、勝手ながら何かの縁を感じる。
そして最近大きな話題となったのが、金原亭世之介師匠の弟子で沖縄の女性で初の二ツ目昇進を果たした金原亭杏寿だ。凱旋公演は満員御礼で立ち見が出るほどの盛況ぶりだったという。
このように、沖縄にも落語文化が浸透してきつつある。落語好きの私にとっては幸せなことだ。あとは沖縄に落語家の一門会ができ、定席の寄席ができれば万々歳ではないだろうか。
一点だけ問題があるとすれば、沖縄に帰ってきて以来、落語を生で聞きに行けていない私自身だ。北山亭メンソーレの落語会を聞きにいきたい!と思いながら、時間を作れずにいる。退院して自由に歩けるようになったら、是非とも聞きに行かなくては、だ。