はいさい!こんにちは!
サイトをリニューアルをしたので、初めましての方のために簡単なご挨拶を。
ブログ管理者の平敷篤(へしきあつし)です。
沖縄でフリーランスのWebライターとして活動しています。
SEO記事やインタビュー記事、ライブレポートが得意です。
以後、お見知りおきください!!
今回から初の試みとして、コラムを書いてみることにしました。
拙いかもしれませんが、呼んでいただけると幸いです。
※コラム内では敬称を略させていただいています。ご了承ください。
実はあまり好きではなかった沖縄のお笑い
ここで、いきなり衝撃の告白をしてしまうことにする。
見出しにもあるとおり、私は沖縄のお笑いが好きではなかった。語弊がないように言うのであれば、「沖縄のお笑いに魅力を感じなかった」のだ。
私が子どもの頃にテレビから流れてきたのは、とんねるずやウッチャンナンチャン、ダウンタウンの番組。スタイリッシュだったり、はちゃめちゃだったりと、強烈な光を放つような「笑い」のパワーに魅了されていた時期だ。
さらには、ボキャブラ天国に出演している芸人のウィットに富んだ笑いに当てられ、ナインティナインやロンドンブーツ1号2号など、若手芸人の体を張った笑いに目を引きつけられていた。
おそらくこの頃は(今もそうかもしれないが)、彼らが生み出す笑いに子どもだけでなく、大人たちも夢中だったのではないだろうか。
確かに、沖縄のお笑いは、地元の文化や方言を取り入れた独特のスタイルを持っており、地域に密着したエンターテインメントの一環として発展してきた。
しかし、テレビをと通してインパクト絶大な笑いのパワーを浴びて育った私にとって、沖縄の笑いは物足りなかった。さらに方言を多用していたため(もしかすると全て方言だったかもしれない。記憶が曖昧だ)、幼い私には内容が理解できず、笑いどころがまったく掴めなかったのだ。
私が「沖縄のお笑いが好きではなかった」のは、これが理由だったと言える。
お笑いポーポーとファニーズの衝撃
そんな私のこり固まった意識に痛烈な一撃を加えてくれたのが、「お笑いポーポー」というテレビ番組だ。
もともとは深夜の15分番組としてスタートしたが、半年後には30分番組に昇格。番組名も「でーじ‼︎お笑いポーポー」に変更され、一大ブームを巻き起こす「カマド体操」を生み出した。
その後レギュラー放送を終え、「RBC招待席 でぇ~じ‼︎お笑いポーポー」として放送が続いた。
出演者は「ゆ〜りきや〜(城間祐司、山田力也)」や「泉&やよい(喜舎場泉、小波津やよい)」、津波信一など、現在も沖縄お笑い会のレジェンドとして活躍している面々。方言を前面に出したコントもあったのだが、キャラクターの強烈さからか、思わず吹き出してしまうような力技の笑いはもちろん、シュールなコントまで幅広い笑いを提供していた。
子どもだった私が、いつお笑いポーポーを見たのかは、はっきりと覚えていない。ビデオで録画したものを見たような気もする。とにかく、当時の私がイメージしていた沖縄のお笑いとは一線を画した内容に、どハマりしたことを鮮明に覚えている。
特に「カマド体操」は、小学校の恩師の結婚式でクラスメイトと一緒に踊ったことが記憶に鮮明だ。
そして更なるインパクトを持って登場してきたのが、今や伝説的なコンビとなった「ファニーズ」だった。記憶は定かではないが、当時の沖縄ではあまり見かけなかった漫才スタイルの笑い。沖縄でボケとツッコミがはっきりと分かれていたのは、ファニーズが最初だったのではないかと思う。
そのスタイルは「しゃべくり漫才」。マシンガンのようにしゃべり倒すその漫才スタイルに、僕は一発で脳をガツン!とやられてしまったのを覚えている。方言まじりではあっても、速射砲のごとく繰り出されるトークは本当に絶品だったと思う。
特にラジオ好きだった私は、ファニーズが出ている番組は聞き倒した。ファニーズのメンバー山城達樹の弟、山城智二が結成したコンビ「踏んだり蹴ったり(ふんけり)」も大好きで、その頃の私の中ではファニーズとふんけりが二大巨頭として君臨していた。
しかし1996年8月、突然の悲報が舞い込んでくる。
「山城達樹、急逝」の一報だった。
人気絶頂での出来事。過労死だったそうだ。身内でも何でもない私も、心にポッカリと穴が空いたようになった。そしてなぜか沖縄のお笑いから、私は遠ざかってしまうことになる。
沖縄のお笑いと再び出会う
沖縄のお笑いから遠ざかった私は、大学進学と同時に沖縄を出て京都での新生活を始めた。笑いの本場・大阪に近く、関西のお笑いを浴びに浴びる内に沖縄のお笑いを忘れてしまっていたことを告白しておこう。
私は特に漫才が好きだったので、テレビから流れてくる「中川家」や「千鳥」、「鎌鼬(後に「かまいたち」に改名)」など若手はもちろん、「オール阪神・巨人」などの漫才に大笑いしていた。
20年間住んだ京都を離れるきっかけは、父の介護だった。高齢になった母だけでは介護が困難になったため、沖縄に帰ってきたのだ。
そんな私は、ひょんなことから沖縄のお笑いと再び出会うことになる。
プロレスが好きな私が、沖縄のプロレス団体「琉球ドラゴンプロレスリング」の試合を観戦に訪れた際、フリーで芸人や音楽活動を行なっている「ひがっす」さんとの出会いだ。
人見知りも人見知りの私に声をかけてくださったことから、試合観戦の度に交友を深めさせてもらった。その際に誘われたのが「コザお笑い劇場」というライブだった。これが沖縄に帰ってきてから、いや、沖縄では初めてとなるお笑いライブ観戦になる。期待しつつも、どこか不安もあった。あの日、ひっそりと離れてしまった沖縄のお笑いで、私は笑うことができるのだろうか…。
そんな杞憂はライブ会場の「沖縄市民小劇場あしびなー」で吹き飛んだ。沖縄のお笑いは、あの頃から進化を遂げていた。本格的な漫才あり、はちゃめちゃなコントありで内地のお笑いと遜色なかった。
そして奇縁というべきか、このライブの主催はFEC。そう、山城達樹が立ち上げた沖縄初の芸能事務所だ。現在は弟の山城智二が代表を勤めている。私自身が好きで好きでたまらなかった芸人との不思議な縁を、勝手ながら感じずにはいられない瞬間だった。
今、私はFECのお笑いライブを中心に、ライブレポートを書いている。そこにあるのは、沖縄の芸人の熱い思いと極上の笑いだ。沖縄のお笑いは日々、成長している。東京や大阪のお笑いと比べても、決して負けてはいない。本サイトでは、その熱くて面白い、沖縄のエンタメを配信していく。
最後に沖縄のお笑いに再び出会えたことに感謝したい。沖縄のお笑いの礎を築いたファニーズの系譜は、事務所を問わず成長し、進化を遂げている。だからこそ言いたい。
「沖縄のお笑いこそが極上のエンタメである」と。